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プレ男フレデリック・ダグラスって、奴隷制に反対した有名な人だよね。奥さんのことは聞いたことないなあ。

メル美逃げるのを助けたのが、のちの奥さんだったんだって。
こんにちは、Dr. Taro です。 「大人の教養」の男女の実話、今回は19世紀アメリカのフレデリック・ダグラスと、妻のアンナ・マレー・ダグラスです。ダグラスは奴隷として生まれ、逃亡したあと、奴隷制廃止運動の演説家・著述家として知られるようになりました。ダグラスが1845年に書いた自伝『アメリカの奴隷 フレデリック・ダグラスの生涯の物語』(Narrative of the Life of Frederick Douglass, an American Slave)と、ワシントンの自宅を管理する米国国立公園局(NPS)の解説をもとにまとめました。
ボルティモアで出会った2人
- フレデリックはメリーランド州で奴隷として生まれました。自伝の版の解説によると、本人も生まれた年をはっきりとは知らず、1817年か1818年だと考えていました
- アンナ・マレーも、メリーランド州の東海岸の生まれです。奴隷とされていた両親の12人の子どもの1人ですが、アンナ自身は自由の身でした。17歳で家を出て、家事の仕事をしていました
- NPS によると、2人が出会ったのは1838年ごろ。フレデリックはまだ奴隷で、アンナは自由黒人の女性でした
水兵の服と、切符のお金
- アンナは、フレデリックのために水兵の服を縫いました
- そして、自由黒人であることを示す「保護証明書」を借り、逃亡を手伝いました
- NPS の別の解説では、1838年9月3日、フレデリックは水兵の姿で北へ向かう列車に乗り、その切符はアンナのお金で払った、と書かれています
- 列車、渡し船、そして歩いて――24時間もたたないうちに、フレデリックはニューヨークに着き、自分は自由だと宣言しました

メル美服を縫って、お金も出して…。アンナがいなかったら、逃げられなかったかもしれないんだね。
1838年9月15日、ニューヨークでの結婚
自伝には、ニューヨークに着いたあとのことがこう書かれています。
- フレデリックは、着いてすぐ、家も住む場所もなく、たよる人もいない状態のなかで、アンナに手紙を書きました。逃亡に成功したことを知らせ、すぐに来てほしい、と
- アンナがやってくると、数日後、逃亡奴隷を助けていたデイヴィッド・ラグルズが、J・W・C・ペニントン牧師を呼び、何人かの立ち会いのもとで結婚式を挙げました
- ダグラスは、そのとき受けとった結婚証明書を、自伝にそのまま書き写しています
この者たちを、夫と妻として、聖なる婚姻により結び合わせたことを証明する。フレデリック・ジョンソンとアンナ・マレー。デイヴィッド・ラグルズ氏とマイケルズ夫人の立ち会いのもとに。 ジェームズ・W・C・ペニントン ニューヨーク、1838年9月15日
- 「フレデリック・ジョンソン」は、逃亡中に名乗っていた名前です。自伝の注には、アンナについて「彼女は自由の身だった」と書き添えられています
荷物を分けて背負い、ニューベッドフォードへ
- 結婚証明書と、ラグルズからもらった5ドル札を受けとると、ダグラスは荷物の一方を背負い、アンナがもう一方を持って、すぐに出発しました
- ニューヨークは逃亡奴隷にとって安全ではなかったため、2人は船と馬車を乗りついで、マサチューセッツ州の港町ニューベッドフォードへ向かいます。お金が足りず、馬車代は着いてから払うと約束して乗りました
- ニューベッドフォードでは、ネイサン・ジョンソン夫妻が2人を迎え入れました
「ダグラス」という名前
- ニューベッドフォードには「ジョンソン」という名前の人が多すぎたため、また名前を変えることになりました
- フレデリックは、名前を選ぶ役をネイサン・ジョンソンにまかせ、ただし「フレデリック」だけは残してほしいと頼みました。自分が自分であるという感覚を守るためです
- ちょうど詩『湖上の美人』を読んでいたジョンソンが、「ダグラス」を提案しました。これが、いまに残る「フレデリック・ダグラス」の名前の始まりです

プレ男有名な「ダグラス」って名前は、新婚のときに友だちが選んだものだったんだ!
家を守ったアンナ
- 2人のあいだには、5人の子どもが生まれました
- ダグラスが演説や運動で家を空けるあいだ、アンナは家を守りました。ダグラスが送るお金で家計をやりくりし、自分でも靴の縫製や洗濯の仕事をして、借金をしないようにしていたといいます
- いっぽうで NPS は、ダグラスの仲間たちがアンナを「ダグラスにふさわしくない」と見下していたこと、肌の色の濃い黒人女性であることも、その扱いに大きく関わっていたことを書いています
手紙が残らなかった妻
- アンナは自由の身でしたが、読み書きをしなかったため、歴史家がふつう手がかりにする本人の手紙が残っていません
- そのため、アンナのことは、夫と子どもたちの言葉から知るしかありません。長女ロゼッタの講演は、のちに『私の記憶の中の母』という本になりました
- NPS は、アンナがダグラスの成功に果たした役割は、歴史の語りのなかで広く見過ごされ、正当に評価されてこなかったと書いています

アンナ・マレーは水兵の服を縫い、お金を出して、フレデリック・ダグラスの逃亡を助けました。読み書きをしなかったため本人の手紙は残っていませんが、NPS は、アンナの役割は歴史のなかで見過ごされてきたと書いています。
その後
- ダグラスはのちにイギリス・アイルランド・スコットランドで講演し、支援者が彼の自由を買いとって、法的にも自由の身になりました。一家はニューヨーク州ロチェスターへ移ります
- 1877年、一家はワシントンの家「シーダーヒル」に移りました。いまのフレデリック・ダグラス国定史跡です
- 1882年、アンナは脳卒中で亡くなりました
- ダグラスは1895年に亡くなったあと、ロチェスターのマウント・ホープ墓地で、アンナのとなりに葬られています
デートで話すなら
- 「フレデリック・ダグラスの逃亡を助けたのは、のちの奥さんだった」は、意外性のある話です
- 「『ダグラス』という名前は、新婚のときに友人が詩から選んだ」も、話のタネになります
同じ時代のアメリカの夫婦の実話は、リンカーンとメアリー・トッドもどうぞ。結婚と人種をめぐる20世紀の裁判は、ラビング夫妻の実話で紹介しています。
まとめ
- 1838年、自由黒人のアンナ・マレーは、水兵の服を縫い、お金を出して、フレデリックの逃亡を助けた
- 1838年9月15日、ニューヨークで結婚。結婚証明書は自伝にそのまま書き写されている
- 2人で荷物を分けて背負い、ニューベッドフォードへ。そこで「ダグラス」の名前を得た
- アンナは5人の子どもを育てて家を守ったが、本人の手紙が残らず、その役割は見過ごされてきた
- 1882年にアンナが亡くなり、ダグラスはのちにアンナのとなりに葬られた
参考文献
- Frederick Douglass. Narrative of the Life of Frederick Douglass, an American Slave (1845). Project Gutenberg eBook #23. https://www.gutenberg.org/ebooks/23 (閲覧日:2026年10月22日)
- National Park Service, Frederick Douglass National Historic Site. Anna Murray Douglass. https://www.nps.gov/frdo/learn/historyculture/anna-murray-douglass.htm (閲覧日:2026年10月22日)
- National Park Service. Frederick Douglass. https://www.nps.gov/people/frederick-douglass.htm (閲覧日:2026年10月22日)
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