
メル美南北戦争のグラント将軍って、のちに大統領になった人だよね。奥さんはどんな人だったの?

プレ男子どものころから「軍人と結婚する」って言ってたんだって。
こんにちは、Dr. Taro です。 「男女の実話」、今回はユリシーズ・S・グラントと妻ジュリア・デント・グラントです。グラント夫妻が暮らしたセントルイスの家を管理する米国国立公園局(NPS)の人物解説「Julia Dent Grant」で確かめました。グラントが北軍で戦った南北戦争の時代は、奴隷解放宣言やリンカーンとメアリーの記事もどうぞ。
プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| ジュリア | 1826年1月26日、ミズーリ州セントルイス生まれ。1902年12月14日、ワシントンD.C.で死去 |
| 実家 | 父のデント大佐が持つ、セントルイス郡の850エーカーの地所「ホワイトヘイブン」 |
| 夫 | ユリシーズ・S・グラント(南北戦争の北軍の将軍、のちの大統領) |
| プロポーズ | 1844年春、ホワイトヘイブンの玄関ポーチで |
| 結婚 | 1848年8月22日(米墨戦争のため延期) |
| 子ども | 4人(フレデリック、ユリシーズ・ジュニア、エレン、ジェシー) |
| 眠る場所 | ニューヨークのグラント将軍国立記念館(グラントの墓)で、夫の隣に |
ホワイトヘイブンの少女
- ジュリアは、7人きょうだいの5番目で、最初の女の子。釣りをし、馬に乗り、森で遊ぶ、とても活発な子でした
- NPSは、ホワイトヘイブンが奴隷のいる農園だったことも書いています。幼いジュリアの遊び相手の多くは、そこに暮らす奴隷の子どもたちで、大人になると、その少女たちはジュリアに仕える奴隷になりました
- 学生のころ、ジュリアは、結婚するなら「勇敢で、さっそうとした軍人」と言っていました
ポーチでのプロポーズ、そして4年
- 寄宿学校から帰ったジュリアの前にあらわれたのが、その軍人、ユリシーズ・S・グラントでした。陸軍士官学校(ウェストポイント)でジュリアの兄フレデリックと同室だった縁で、ホワイトヘイブンに招かれたのです
- グラントはたびたび訪ねてくるようになり、2人は散歩や乗馬を楽しみました
- 1844年の春、グラントはホワイトヘイブンの玄関ポーチでプロポーズします
- けれど結婚は、グラントが米墨戦争に従軍したため、1848年8月22日まで延びました
- 37年の結婚生活は、愛と信頼と尊敬に満ちたものだった、とNPSは書いています。ジュリアはのちに夫を「私が見た中でいちばん素敵で、いちばんハンサムな人」と懐かしんでいます

プレ男プロポーズから結婚まで4年待ったんだ。そのうえ、何十年たっても「いちばんハンサム」って言ってもらえるなんて。
「すばらしい農夫の妻」
- グラントは1854年に陸軍を辞め、一家はホワイトヘイブンへ。1855年までに、ジュリアが父から結婚祝いにもらった80エーカーの土地を耕し、グラントは地所全体の管理もしていました
- お金には苦しい時期でしたが、ジュリアは働く夫を支え、自分を「すばらしい農夫の妻」と呼んでいました。鶏を育て、バターをつくり、ケーキを焼くのは週に1度。料理そのものは、奴隷にされた働き手にまかせていた、とNPSは書いています
戦地をたずねた妻
- 1861年、南北戦争が始まると、グラントはすぐに北軍に加わり、戦争のあいだほとんど家を離れていました
- 2人は手紙で離れているつらさをやわらげ、ジュリアは、1人で、あるいは子どもたちを連れて、何度も夫の野営地をたずねました。NPSは、家族がそばにいることが、グラントを落ちつかせたようだと書いています
- ジュリアは夫の信頼する相談相手になり、リンカーン大統領夫妻を前線に招くよう提案したこともあります。1864年には、南部連合との和平交渉の使者になりたいと夫に申し出ましたが、これはかないませんでした
- NPSは、こうした旅で子どもの世話を手伝ったのが、ジュリアの父が所有していた奴隷の女性ジュールで、彼女が1864年はじめに逃げて自由を手にしたことを、「皮肉なこと」として書きとめています
ホワイトハウスと、世界一周
- グラントが大統領だった1869〜1877年、ジュリアは上院の公聴会に出席し、大統領あての郵便に目を通し、閣僚や議員、判事、外交官と会いました
- 午後のお茶会や、誰でも参加できるレセプションを開き、1874年には娘ネリーの結婚式をホワイトハウスのイーストルームで挙げています
- 退任後の1877年5月から、2人は2年半の世界一周の旅へ。ジュリアの回想録の3分の1近くがこの旅の思い出で、外国でようやく夫がふさわしい評価と敬意を受けた、と書いています
破産と病、そして回想録
- 旅から数年後、2人はウォール街の金融詐欺にあって、ほとんど無一文になります。さらにグラントは、手術のできないのどのがんと診断されました
- 家族の生活を守る最後の手として、グラントは1885年、自分の回想録を書きあげ、その直後の7月23日、ニューヨーク州マウント・マクレガーで亡くなりました
- 回想録の収益で、ジュリアは裕福になり、人生の最後の17年をニューヨークとワシントンで暮らしました
- 1897年には、マッキンリー大統領とともにニューヨークのグラントの墓の献堂式に出席しています
ファーストレディ初の回想録
- ジュリアも自分の回想録を書きました。NPSによると、これはファーストレディが書いた最初の回想録です
- ところが、納得できる編集者が見つからず、出版されたのは1975年になってからでした
- ジュリアは76歳で亡くなり、グラントの墓で夫の隣に葬られています

NPSによると、グラントは家族を養う最後の手として回想録を書きあげ、その収益でジュリアは裕福になりました。ジュリア自身の回想録は、ファーストレディが書いた最初の回想録とされています。
まとめ
- ジュリアは「勇敢でさっそうとした軍人と結婚する」と言っていた少女。兄の士官学校の同室だったグラントと出会う
- 1844年春、ホワイトヘイブンのポーチでプロポーズ。米墨戦争をはさんで、1848年8月22日に結婚
- ホワイトヘイブンは奴隷のいる農園でもあった。NPSはそのことも伝えている
- 戦地への訪問、ホワイトハウス、世界一周。最後は詐欺による破産と、のどのがん
- グラントは死の直前に回想録を書きあげ、妻に暮らしをのこした。ジュリアは夫の隣に眠る
- 大統領夫妻の実話は、フランクリンとエレノア・ルーズベルトもどうぞ
参考文献
- U.S. National Park Service. Julia Dent Grant. https://www.nps.gov/people/julia-dent-grant.htm (閲覧日:2026年10月22日)
この記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別の診断・治療に代わるものではありません。 気になる症状や不安がある場合は、医療機関にご相談ください。