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プレ男ルーズベルト大統領って2人いるよね。セオドアとフランクリン。親戚なの?

メル美しかもフランクリンの奥さんのエレノアは、セオドアのめいなんだって!
こんにちは、Dr. Taro です。 「男女の実話」、今回はアメリカの第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルト(FDR)と、妻のエレノア・ルーズベルトです。フランクリン・D・ルーズベルト大統領図書館・博物館(米国国立公文書館の大統領図書館)と、米国国立公園局(NPS)の人物解説で確かめました。エレノアのおじ・セオドアの結婚の話は、セオドア・ルーズベルトとアリス、イーディスにまとめています。
プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| エレノア | 1884年10月11日、ニューヨーク生まれ。父はセオドア・ルーズベルト大統領の弟エリオット |
| 2人の関係 | 遠い親戚(大統領図書館の表記では fifth cousins, once removed)。子どものころから知り合い |
| 結婚 | 1905年3月17日、ニューヨーク |
| 子ども | 1906〜1916年に6人(1909年生まれの1人は、その年のうちに亡くなる) |
| フランクリンの死去 | 1945年4月12日 |
| エレノアの死去 | 1962年11月7日。ハイドパークの屋敷のバラ園で、夫の隣に眠る |
両親を早くに亡くした少女
- エレノアの母は1892年、父は1894年に亡くなりました。エレノアは祖母に引きとられ、15歳まで家庭教師に学びます
- その後、イギリスの女子校アレンズウッドへ。校長のマリー・スーヴェストルはエレノアに特別に目をかけ、その学びと考え方に大きな影響を与えました
- 18歳でニューヨークに戻ったエレノアは、自信をつけて、社会奉仕の活動を始めます
花嫁を送り出したのは、大統領のおじ
- フランクリンとエレノアは、若者になってから再会し、つきあいはじめて、まもなく婚約しました
- 結婚式は1905年3月17日。この日付は、エレノアのおじで当時の大統領セオドア・ルーズベルトが出席して、花嫁を送り出せるように選ばれた、と大統領図書館は紹介しています
- 大統領図書館は、2人の結婚証明書の写しを公開しています

メル美大統領の予定に合わせて結婚式の日を決めたんだ!花嫁を送り出す役が現職の大統領って、すごいね。
1918年、荷物の中の手紙
- 1914年、ルーシー・マーサーという女性が、エレノアの社交秘書になりました。当時フランクリンは海軍次官補で、ルーシーは、その妻としてのエレノアの社交のつとめを手伝っていました
- ルーシーとフランクリンは、やがて恋愛関係になります
- 1918年、エレノアは、フランクリンの荷物の中にルーシーからの手紙の束を見つけて、関係を知りました
- NPSによると、2人は、当時は離婚に強い偏見があったにもかかわらず離婚を考えました。けれど最後は、家族と経済的な事情、離婚すれば終わってしまうフランクリンの政治の道、そして「2人とも結婚を続けたいし、続ける必要がある」という思いから、やり直すことを選びます
- NPSは、歴史家の多くが、この出来事で2人とも大きく変わったと考えていると書いています。フランクリンは個人としても政治家としてもまじめになり、エレノアは、すでにあった公私の活動の幅を意識して広げていった、と

プレ男手紙の束が見つかる…。昔から、バレるきっかけはそういうものなんだね。
ポリオと、エレノアの政治
- 1921年、フランクリンはポリオにかかります。大統領図書館の年表によると、エレノアは夫を看病し、政治の世界に戻ろうという夫の思いを励ましました
- このころからエレノアは、夫の関心をつなぎとめる助けとして、そして自分自身の目標のために、政治の活動に深くかかわっていきます。女性有権者同盟、女性労働組合連盟、ニューヨーク州民主党委員会の女性部などで活動し、ハイドパークの家具工場「ヴァルキル工業」の設立にも加わり、女子校で教えました
ファーストレディとして
- 1933年、ホワイトハウスへ。エレノアは自分の記者会見を開いた最初のファーストレディになりました。大統領の会見から締め出されがちだった女性記者に機会をつくるため、女性記者だけを入れたのです
- 全国を回って、救済事業や働く人の暮らしを見て夫に報告し、「大統領の目、耳、足」と呼ばれました
- 1935年からは、新聞コラム「My Day」を亡くなるまで書きつづけます
- 1939年、アメリカ革命の娘たち(DAR)が、アフリカ系の歌手マリアン・アンダーソンに講堂での公演を認めなかったことに抗議して、エレノアはDARを退会しました
その後の2人と、ルーシー
- NPSによると、ルーシーは1920年に、6人の子のいる裕福な男やもめウィンスロップ・ラザファードと結婚し、夫が亡くなる1944年まで連れそいました
- フランクリンは、二度とルーシーに会わないとエレノアに約束していましたが、1933年の大統領就任式にはルーシーを招いています。そして1944年にルーシーの夫が亡くなると、2人はまた会うようになりました。エレノアはそれを知らず、知ったときには怒りました
- 1945年、フランクリンがジョージア州ウォームスプリングスで亡くなったとき、そばにいた人々の中にルーシーもいたと知って、エレノアは心を乱された、とNPSは書いています
「世界のファーストレディ」へ
- 夫の死について、エレノアは「物語は終わった(The story is over)」と言い、ハイドパークのヴァルキルの家に戻りました
- けれど同じ1945年、トルーマン大統領の求めで国連総会の米国代表になります。人権委員会の委員長として世界人権宣言づくりに力をつくし、宣言は1948年12月10日に国連総会で採択されました(国連そのものの始まりは国際連合憲章で紹介しています)
- 1962年11月7日に亡くなり、ハイドパークの屋敷のバラ園で、夫の隣に葬られました

大統領図書館は、ルーシー・マーサーとの関係が見つかって「結婚は二度と同じではなくなった」としつつ、その後の2人の結婚は、互いへの敬意と愛情、共通の目標にもとづく「強く実りあるパートナーシップ」になったと書いています。
まとめ
- フランクリンとエレノアは遠い親戚。1905年3月17日、おじのセオドア・ルーズベルト大統領が花嫁を送り出せる日に結婚した
- 1918年、エレノアは夫の荷物から、秘書だったルーシー・マーサーの手紙を見つける。2人は離婚を考えたが、続けることを選んだ
- 1921年、ポリオに倒れた夫を支えながら、エレノアは自分の活動を広げていく
- ファーストレディとして女性記者だけの記者会見、コラム「My Day」。夫の死後は国連で世界人権宣言づくりにかかわった
- 2人はいま、ハイドパークのバラ園に並んで眠っている
- 大統領夫妻の実話は、「女性たちのことを忘れないで」アビゲイルとジョン・アダムズ、リンカーンとメアリーもどうぞ
参考文献
- Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum. Franklin and Eleanor’s Marriage Certificate (Document for March). https://www.fdrlibrary.org/document-march (閲覧日:2026年10月22日)
- Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum. Eleanor Roosevelt Biography. https://www.fdrlibrary.org/er-biography (閲覧日:2026年10月22日)
- U.S. National Park Service. Eleanor Roosevelt. https://www.nps.gov/people/eleanor-roosevelt.htm (閲覧日:2026年10月22日)
- U.S. National Park Service. Lucy Mercer Rutherfurd. https://www.nps.gov/people/lucy-mercer-rutherfurd.htm (閲覧日:2026年10月22日)
この記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別の診断・治療に代わるものではありません。 気になる症状や不安がある場合は、医療機関にご相談ください。