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プレ男夏のビーチとか、カフェでよく流れてるよね、ボブ・マーリー。のんびりした音楽ってイメージ!

メル美でも、歌っていることはけっこう社会的だって聞いたことがあるよ。
こんにちは、Dr. Taro です。 「音楽の教養」、今回はボブ・マーリーです。ボブ・マーリーの公式サイトの伝記、ロックの殿堂、ユネスコの資料をもとにまとめました。
すごさ1:ジャマイカの音楽を「世界の音楽」に
- ロックの殿堂は、ボブ・マーリーを「レゲエを世界の地図にのせた」人と紹介しています
- 60年代の踊るための音楽スカやロックステディのテンポを落とし、シンコペーション(リズムのずらし)と深いグルーヴを加えて、ジャマイカならではのレゲエを生み出した1人です
- 歌のテーマは、社会正義、ラスタファリ(ジャマイカで生まれた信仰と運動)、抵抗、そして団結と愛。とても政治的で、同時にとても精神的な音楽でした
- その影響は、ロック、パンク、ヒップホップ、ポップなど、多くのジャンルにおよびました
トレンチタウンから
- 公式の伝記によると、本名はロバート・ネスタ・マーリー。1945年2月6日、ジャマイカのセント・アン教区の山あいの村ナイン・マイルズで生まれました
- 10代のはじめに首都キングストンへ移り、貧しい地区トレンチタウンで暮らします。トレンチタウンは、貧しさの中にも音楽の才能が育つ、文化の豊かな場所でした
- 14歳で学校を出て、溶接工の見習いになりますが、小さな鉄の破片が目に入るけがをして、音楽ひとすじに
- 1963年ごろ、幼なじみのバニー・ウェイラー、ピーター・トッシュとグループを組みます。これがのちの「ウェイラーズ」です
- レコード会社スタジオ・ワンでの最初のシングル「Simmer Down(シマー・ダウン)」は8万枚以上売れたといわれ、、トレンチタウンの若者たちに「かっとなるな」と呼びかける歌でした

メル美最初のヒットから、まちの若い人たちに「落ちつこう」って歌ってたんだね。
すごさ2:ロックの観客に届けた「Catch A Fire」
- 1972年、ロンドンでレコード会社アイランド・レコードの創業者クリス・ブラックウェルと出会います
- ブラックウェルは、シングル1枚ではなくアルバムを作ろうと提案し、4,000ポンドを前払いしました。ジャマイカのアーティストには、考えられない金額でした
- ブラックウェルは、ロックが好きな聞き手にジャマイカの音楽を届けられる人として、マーリーを見ていました
- 1973年、アルバム「Catch A Fire」を発表。同じ年の「Burnin’」に入っていた「I Shot The Sheriff」を、エリック・クラプトンがカバーし、1974年に全米1位に。これでマーリーの名前は世界に広がりました
- 「No Woman No Cry」(1974年)は、トレンチタウンの若いころ、苦しさの中で仲間と過ごした喜びを歌った曲です
すごさ3:銃撃の2日後、ステージに立った
- 1970年代のジャマイカは、2つの政党、人民国家党(PNP)とジャマイカ労働党(JLP)の対立による暴力に苦しんでいました
- マーリーは、対立をしずめようと、どちらの党にもつかない無料のコンサート「スマイル・ジャマイカ」を、1976年12月5日に開くことにします
- その2日前、キングストンの自宅でリハーサル中に、銃撃されました。奇跡的に死者は出ず、マーリーは軽いけがでした
- それでもマーリーは、コンサートのステージに立ち、「War」を歌いました。観客は約8万人だったといわれます
- その後、ロンドンに移り、アルバム「Exodus」(1977年)を録音。全英アルバムチャートに56週連続でランクインしました

プレ男撃たれた2日後に、平和のコンサートで歌ったなんて…。のんびりした音楽ってイメージ、まちがってた。
すごさ4:対立する2人の手を、ステージでつながせた
- 1978年4月22日、キングストンの国立競技場で「ワン・ラブ・ピース・コンサート」が開かれます。これも、政党の対立による暴力を止めるためのコンサートでした
- いちばん有名な場面は、マーリーが、JLPの党首エドワード・シアガと、首相のマイケル・マンリーをステージに呼んだときです
- 「Jamming」の演奏の中で、マーリーは2人に握手をうながし、その手を高くかかげました
- 同じ年の6月15日、マーリーは国際連合で平和のメダルを受けました

銃撃のあとも、ボブ・マーリーは平和のためのコンサートに立ち、対立する2人の政治家の手をステージでつながせました。
日本にも来ていた
- 1979年4月、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズは、日本、オーストラリア、ニュージーランドをツアーしました
- 1980年には、独立したばかりのジンバブエの独立式典に招かれて演奏しています
36歳での死と、その後
- 1977年、サッカーでのけがをきっかけに、足の親指にがんが見つかりました
- 1980年9月、がんが全身に広がっていることがわかります。その2日後の9月23日、アメリカ・ピッツバーグでのステージが、最後のライブになりました
- 8か月の闘病ののち、1981年5月11日、マイアミの病院で亡くなりました。36歳でした
- ジャマイカ政府は国葬を行い、ふるさとのナイン・マイルズに葬られました
- 1994年、ロックの殿堂入り。1999年12月には、「Exodus」が米タイム誌の「20世紀最高のアルバム」に、「One Love」がBBCの「ミレニアムの歌」に選ばれました
レゲエは「人類の無形文化遺産」に
- 2018年、「ジャマイカのレゲエ音楽」が、ユネスコの人類の無形文化遺産の代表的な一覧表に記載されました
- ユネスコによると、レゲエは、主にキングストン西部の社会の片すみに置かれた人々の場所で生まれ、スカからロックステディ、そしてレゲエへと変わっていきました
- はじめは片すみに置かれた人たちの声だった音楽が、いまは性別や民族、宗教をこえて、社会の幅広い人々に受け入れられています
- いまもジャマイカでは、幼いころから大学まで、学校でレゲエの演奏が教えられています
デートで話すなら
- レゲエは、スカ → ロックステディ → レゲエ。テンポを落として生まれた
- 1976年、銃撃の2日後にステージで「War」を歌った
- 1978年、対立する2人の政治家の手を、ステージでつながせた
- 1979年には日本にも来ていた
- 2018年、レゲエはユネスコの無形文化遺産に
まとめ
- 1945年ジャマイカ生まれ、トレンチタウン育ち。ウェイラーズで歌い始めた
- 1973年「Catch A Fire」で世界へ。クラプトンの「I Shot The Sheriff」で名前が広がった
- 政治的な暴力の中で、平和のためのコンサートに立ち続けた
- 1981年、36歳で死去。1994年ロックの殿堂入り
- 音楽の流れは大人の音楽の教養・入門、同じころのアメリカの若者文化はウッドストックもどうぞ
参考文献
- Bob Marley Official Site. Bob Marley History(biography). https://www.bobmarley.com/history/ (閲覧日:2026年10月22日)
- Rock & Roll Hall of Fame. Bob Marley. https://www.rockhall.com/inductees/bob-marley (閲覧日:2026年10月22日)
- UNESCO Intangible Cultural Heritage. Reggae music of Jamaica(2018). https://ich.unesco.org/en/RL/reggae-music-of-jamaica-01398 (閲覧日:2026年10月22日)
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