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プレ男時代劇で「飯盛女」って聞くけど、旅館でご飯をよそう人のこと?

メル美名前はそうだけど、実際はもっと重い歴史があるみたい。
こんにちは、Dr. Taro です。 「色街の歴史」、今回は江戸時代の宿場にいた飯盛女(めしもりおんな)です。交通史学会の学術誌『交通史研究』第31号(1993年)に掲載された、柳田和久「近世後期における宿場本陣と飯盛奉公人」をもとにまとめました。この論文は、奥州街道の郡山宿(いまの福島県郡山市)に残る古文書を調べたものです。
※この記事は歴史の紹介です。
公認の遊廓は3つだけ
- 論文によると、幕府は、江戸の吉原、大坂の新町、京都の島原を遊廓として公認していました(吉原の歴史、京都・島原の歴史)
- いっぽう、宿場の飯盛女について、論文は「宿場の私娼」だったと書いています
- 幕府は飯盛女にきびしい制限をかけました
- 享保3年(1718年):飯盛女は旅籠屋1軒につき2人まで
- 明和元年(1764年)8月:品川・板橋・千住の飯盛女の人数の増員を認めたが、ほかの宿場は2人のまま
なぜ宿場に置かれたのか
- 論文は、飯盛女は旅人を呼びこむために置かれ、宿駅を保護する策の一つとして研究されてきた、と紹介しています
- 先行研究では、小田原宿(文化3年に許可)や安中宿(嘉永7年に許可)の例が取りあげられ、宿場の財政を助ける策の一環として飯盛女が置かれたことが指摘されています
- 宿場には、大名や公家、武士が泊まる本陣・脇本陣、ふつうの平旅籠屋、飯盛女を置く飯盛旅籠屋、茶屋などがありました。交通量がふえた江戸中期以降、本陣の財政は苦しくなっていきます

プレ男宿場の財政のために置かれた、って…。
郡山宿と本宮宿に「200人余り」
- 寛政9年(1797年)、幕府領を治める桑折の代官からの通達によると、郡山宿と本宮宿には、あわせて200人余りの飯盛女がいました
- 通達は、飯盛女がぜいたくな衣類を着て、櫛やかんざしで遊女のように飾りたて、旅籠代のほかに揚代や酒肴代を取っていると問題にしています
- そこで出された取締りは、たとえば次のようなものでした
- 衣類や夜具に絹を使うことを禁止
- 櫛・笄・かんざしに金銀を使うことを禁止
- 表で三味線をひくことを禁止
- 飯盛女の人数をできるだけ減らすこと
66通の「奉公人請状」が語ること
郡山宿には、飯盛女の奉公人請状(奉公の契約書)が66通残っています。論文はその内容をこうまとめています。
- 奉公に出された娘たちの年齢は、5歳から26歳
- 奉公の期間は2年から18年まで。5年以上の長いものが多い
- 奉公の理由は、親が保証人の場合は「上納金ニ差支(さしつかえ)」「年貢上納ニ差支」など。年貢などの支払いに困ったため、という書き方です
- 給金は、金3分から金70両まで大きな差がありました。親が保証人の場合は、幼く、期間が長く、給金が安い傾向でした
- 出身地は越後国(いまの新潟県)が圧倒的に多く、次が仙台、地元では磐城国でした
- 親の職業は、百姓・士族・猟師・大工など。論文は、明治維新の激動期の困窮士族の娘、貧しい農家の娘たちだったとしています
そのうえで論文は、奉公の条件は、親が保証人でも旅籠屋が保証人でも、「実質的にはいずれも人身売買であり、人身が保障されているとはいいがたい」と書いています。

メル美5歳から…。親が年貢を払えないから、何年も奉公に出されたんだね。
集めたお金は、本陣の財政に
- 郡山宿を治めていた二本松藩は、宿場の財政が苦しいことへの対策として、飯盛女などを抱える旅籠屋から上銭・掛銭(お金)を集め、本陣の費用にあてました
- 論文によると、この徴収は文政6年(1823年)に始まり、天保の飢饉で一時中止されたあと、天保12年(1841年)から幕末まで続きました
- 集めたお金の大部分は、幕府や藩の役人が本陣に泊まる費用に使われていました
明治のはじめ、「仮病院」の費用も
- 明治のはじめ、郡山宿では、飯盛女や性病の人の医療のための仮病院を設けることが計画されました
- その費用のため、飯盛女1人につき1日100文の割合で上納が命じられています
論文は最後に、「生活苦のため幼くして人身売買され、私娼として苛酷な労働を強要させられた飯盛女は、武士階級の休泊施設である本陣の費用負担、仮病院設立の費用捻出のため利用された」と結んでいます。

郡山宿に残る66通の奉公人請状では、飯盛女は5歳から26歳の娘たちで、年季は長いと18年でした。論文は、実質的には人身売買だったと書いています。明治のはじめには、飯盛女から集めたお金で仮病院を設ける計画もありました。
この歴史をどう受けとめるか
- 「飯盛女」という言葉は、時代劇や小説ではさらりと出てきますが、その背景には、親の借金や年貢のために、幼いうちから長い年季で奉公に出された娘たちがいました
- そして、彼女たちから集められたお金が、宿場や藩の財政を支える形になっていたことも、論文は古文書から明らかにしています
明治以降の遊廓の歴史は、吉原の歴史、名古屋・中村遊廓の歴史、戦後の赤線の歴史で紹介しています。
まとめ
- 江戸幕府が公認した遊廓は吉原・新町・島原。宿場の飯盛女は「宿場の私娼」だった
- 享保3年(1718年)、飯盛女は旅籠1軒に2人までとされた。明和元年(1764年)に品川・板橋・千住だけ増員が認められた
- 郡山宿の66通の請状では、娘たちは5〜26歳、年季は2〜18年。論文は「実質的には人身売買」とする
- 二本松藩は旅籠からお金を集め、本陣の財政にあてた。明治初年には仮病院の費用も飯盛女に上納させた
参考文献
- 柳田和久. 近世後期における宿場本陣と飯盛奉公人. 交通史研究. 1993;31:17-44. doi:10.20712/kotsushi.31.0_17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/kotsushi/31/0/31_KJ00010036611/_article/-char/ja (閲覧日:2026年10月22日)
この記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別の診断・治療に代わるものではありません。 気になる症状や不安がある場合は、医療機関にご相談ください。