大人の教養An Evening of Culture

第三幕Act III — The Pleasure Quarters

宿場の「飯盛女」とは何だったのか幕府が公認した遊廓は吉原・新町・島原だけ。旅籠1軒に2人までとされた宿場の女性たち。奥州街道・郡山宿に残る66通の奉公人請状と、宿場の財政を支えさせられた歴史

No.1472026年10月22日

江戸時代、幕府が公認した遊廓は江戸の吉原、大坂の新町、京都の島原でした。いっぽう宿場の旅籠には「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれる女性たちがいて、享保3年(1718年)には旅籠1軒に2人までと定められました。奥州街道の郡山宿(いまの福島県郡山市)に残る66通の奉公人請状からは、5歳から26歳の娘たちが、親の年貢の支払いなどを理由に、長いと18年の年季で奉公に出されていたことがわかります。藩は旅籠から集めたお金を本陣の財政にあてました。交通史学会の『交通史研究』に掲載された論文をもとにまとめました。

目次
  1. 公認の遊廓は3つだけ
  2. なぜ宿場に置かれたのか
  3. 郡山宿と本宮宿に「200人余り」
  4. 66通の「奉公人請状」が語ること
  5. 集めたお金は、本陣の財政に
  6. 明治のはじめ、「仮病院」の費用も
  7. この歴史をどう受けとめるか
  8. まとめ

プレ男時代劇で「飯盛女」って聞くけど、旅館でご飯をよそう人のこと?

メル美名前はそうだけど、実際はもっと重い歴史があるみたい。

こんにちは、Dr. Taro です。 「色街の歴史」、今回は江戸時代の宿場にいた飯盛女(めしもりおんな)です。交通史学会の学術誌『交通史研究』第31号(1993年)に掲載された、柳田和久「近世後期における宿場本陣と飯盛奉公人」をもとにまとめました。この論文は、奥州街道の郡山宿(いまの福島県郡山市)に残る古文書を調べたものです。

※この記事は歴史の紹介です。

公認の遊廓は3つだけ

なぜ宿場に置かれたのか

プレ男宿場の財政のために置かれた、って…。

郡山宿と本宮宿に「200人余り」

66通の「奉公人請状」が語ること

郡山宿には、飯盛女の奉公人請状(奉公の契約書)が66通残っています。論文はその内容をこうまとめています。

そのうえで論文は、奉公の条件は、親が保証人でも旅籠屋が保証人でも、「実質的にはいずれも人身売買であり、人身が保障されているとはいいがたい」と書いています。

メル美5歳から…。親が年貢を払えないから、何年も奉公に出されたんだね。

集めたお金は、本陣の財政に

明治のはじめ、「仮病院」の費用も

論文は最後に、「生活苦のため幼くして人身売買され、私娼として苛酷な労働を強要させられた飯盛女は、武士階級の休泊施設である本陣の費用負担、仮病院設立の費用捻出のため利用された」と結んでいます。

郡山宿に残る66通の奉公人請状では、飯盛女は5歳から26歳の娘たちで、年季は長いと18年でした。論文は、実質的には人身売買だったと書いています。明治のはじめには、飯盛女から集めたお金で仮病院を設ける計画もありました。

この歴史をどう受けとめるか

明治以降の遊廓の歴史は、吉原の歴史、名古屋・中村遊廓の歴史、戦後の赤線の歴史で紹介しています。

まとめ


参考文献

  1. 柳田和久. 近世後期における宿場本陣と飯盛奉公人. 交通史研究. 1993;31:17-44. doi:10.20712/kotsushi.31.0_17. https://www.jstage.jst.go.jp/article/kotsushi/31/0/31_KJ00010036611/_article/-char/ja (閲覧日:2026年10月22日)

この記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別の診断・治療に代わるものではありません。 気になる症状や不安がある場合は、医療機関にご相談ください。