大人の教養An Evening of Culture

第三幕Act III — The Pleasure Quarters

京都・島原の歴史1641年、六条三筋町からの移転騒ぎが「島原の乱のよう」と言われて付いた名前。客をもてなす「揚屋」と太夫を抱える「置屋」の分業、俳句の会もあった町。重要文化財「角屋」に残る江戸の宴会場

No.1922026年10月22日

京都の島原は、正式な地名を「西新屋敷」といいます。寛永18年(1641年)、官命で六条三筋町から移され、その騒ぎが島原の乱のようだと言われたことから「島原」と呼ばれるようになりました。宴席の「揚屋」と、太夫や芸妓を抱える「置屋」が分かれる営業のしかたで、江戸中期には俳句の会(島原俳壇)もできました。花街としての営業は昭和52年(1977年)まで。江戸時代の揚屋の建物「角屋」は国の重要文化財で、「角屋もてなしの文化美術館」として公開されています。角屋保存会の公式サイトをもとにまとめました。

目次
  1. 名前の由来は「島原の乱のような騒ぎ」
  2. 「揚屋」と「置屋」の分業
  3. 太夫と、俳句の会
  4. 塀のない町、火事は1回だけ
  5. 明治から昭和52年まで
  6. いまも残る「角屋」
  7. まとめ

プレ男京都の「島原」って、九州の島原と関係あるの?

メル美江戸時代の宴会場の建物が、重要文化財として残ってるらしいよ。

こんにちは、Dr. Taro です。 「色街の歴史」、今回は京都の島原です。江戸時代から続いた京都の花街で、いまは「角屋(すみや)」の建物が国の重要文化財として残っています。角屋を守る公益財団法人 角屋保存会(角屋もてなしの文化美術館)の公式サイトの解説をもとにまとめました。

※この記事は歴史の紹介です。お店の案内や、利用をすすめるものではありません。

名前の由来は「島原の乱のような騒ぎ」

プレ男九州の島原そのものじゃなくて、「乱みたいな大騒ぎ」が名前の由来なんだ!

「揚屋」と「置屋」の分業

島原の営業のしかたは、2種類の店に分かれていました。

店 役わり
揚屋(あげや) 太夫や芸妓を抱えず、置屋から来てもらって、客に宴席でもてなす店。料理も作っていたので、いまの料亭にあたる。江戸時代だけのしくみで、明治以降は「お茶屋」に入った
置屋(おきや) 太夫や芸妓を抱えて、揚屋に送り出す店

太夫と、俳句の会

メル美宴会の場で、俳句の会まで開かれていたんだね。

塀のない町、火事は1回だけ

明治から昭和52年まで

いまも残る「角屋」

京都の島原は、1641年に六条三筋町から移され、その騒ぎが島原の乱のようだと言われて名前が付きました。宴席の揚屋と、太夫を抱える置屋に分かれていたのが特徴です。

まとめ

ほかの色街の歴史は、吉原、長崎・丸山、飛田新地もどうぞ。


参考文献

  1. 公益財団法人 角屋保存会(角屋もてなしの文化美術館). 島原の文化史. https://sumiyaho.sakura.ne.jp/page/history.html (閲覧日:2026年10月22日)
  2. 公益財団法人 角屋保存会(角屋もてなしの文化美術館). 角屋もてなしの文化美術館(令和8年企画展「角屋蔵 宴にみる清朝陶磁」展). https://sumiyaho.sakura.ne.jp/page/art_museum.html (閲覧日:2026年10月22日)

この記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別の診断・治療に代わるものではありません。 気になる症状や不安がある場合は、医療機関にご相談ください。