
メル美長崎の「思案橋」って、地名の由来がおもしろいって聞いたよ。

プレ男江戸時代の長崎って、出島にオランダの人もいたんだよね。どんな町だったんだろう。
こんにちは、Dr. Taro です。 「色街の歴史」、今回は長崎の丸山です。出島や唐人屋敷があった長崎ならではの花街でした。長崎市の公式サイトの読みもの「ナガジン!」の記事をもとにまとめました。
※この記事は歴史の紹介です。お店の案内や、利用をすすめるものではありません。
始まりは、博多から来た遊女屋
- 長崎市によると、長崎の遊女屋の始まりは、町ができてまもないころです。博多の商人が長崎に来て町(いまの今博多町)を開き、そこに博多柳町の遊女が連れてこられ、ポルトガル人の船乗りを相手にした遊女屋が置かれたといいます
- その後、遊女屋は長崎街道の近くなど、市中のあちこちに散らばって建ちました
- 慶長11〜12年(1606〜1607年)から、幕府は散らばった遊女屋を集めはじめ、紙屋町や高麗町などの遊女屋を今博多町の近くに移しました。いろいろな町から「寄せ集め」られたので、その地は「寄合町」と名付けられました
1642年、「長崎丸山」の完成
- 寛永19年(1642年)、寄合町は町の名前ごと丸山に移り、丸山町と寄合町がL字型に合わさった「長崎丸山」ができました
- 丸山の出入り口は「あかずの門」と二重の門で、まわりはすべて高い塀で囲まれていました。広さは約1万坪。同じように塀で囲まれた出島(約4千坪)や唐人屋敷(約8千坪)より大きな場所でした
- 遊女の数は、元禄期に1500人いたといいます
- 長崎の丸山は、江戸の吉原、京都の島原、大坂の新町と並ぶ、江戸時代を代表する花街でした(吉原、島原)
- 「丸山」の名前の由来には、ゆるやかな坂だったからという説と、かつての貿易港・平戸で丸山という所に遊女屋があったことにちなむという説の2つがあります

プレ男出島よりも広かったんだ!
出島と唐人屋敷へ行けたのは、丸山の遊女だけ
- 丸山には長崎の町の人や上方の商人が多く出入りしましたが、ほかの花街といちばんちがうのは、丸山の遊女が唐人屋敷や出島(オランダ屋敷)への出入りを許されていたことでした
- 丸山の遊女には、「日本行き」「唐人行き」(唐人屋敷へ行く)、「オランダ行き」(出島へ行く)の3種類がありました。長崎市によると、格は日本行きがいちばん上とされましたが、揚代がいちばん高かったのはオランダ行きだったといいます
- 当時の古川柳に「丸山の 恋は一万三千里」があります。13,000里は、長崎とオランダのあいだの距離。丸山の遊女とオランダ人の恋をよんだ句です
- 後世に名前が残るのは、唐人行き・オランダ行きの遊女が多いといいます。出島のオランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフと瓜生野、商館医シーボルトと其扇(そのぎ)などで、子どもも生まれました
- 稲佐の悟真寺の国際墓地には、遊女の名前が刻まれた外国人商人の墓もあります

メル美シーボルトと縁のあった人も、丸山の人だったんだ…。
くんちの奉納と、豪華な衣装
- 長崎の氏神・諏訪神社の秋の大祭「長崎くんち」が始まったとされる寛永11年(1634年)、高尾と音羽という2人の遊女が、神前で舞を奉納したと伝えられています
- 丸山の遊女の衣装は豪華なことで有名でした。とくに、キリシタンでないことを示させる正月の行事「絵踏み」のときの衣装は、舶来の生地にべっ甲のくしやかんざしと、遠く江戸まで知られるほどだったといいます
- 井原西鶴の浮世草子にも、丸山とその遊女のことが書かれています
芸子の登場と、明治以降
- 長崎市によると、芸だけで客をもてなす芸子が長崎に初めて来たのは、天明元年(1781年)ごろ、大坂から来た3人の旅芸子でした
- 文化14年(1817年)、長崎奉行が旅芸子の滞在を禁じたころ、地元生まれの「じげ芸子」も活躍しはじめます。長崎では芸子を「芸子衆(げいこし)」と呼びました
- 明治5年(1872年)の解放令で、新しい公娼の制度(貸座敷)が始まりました。料亭がふえ、芸子衆を中心とした花街の文化が育ち、昭和の初めには長崎市内の5つの花街に7つの検番がありました(吉原の歴史の解放令の項も参照)
- 戦後、花街はおとろえ、昭和24年(1949年)に残った2つの検番が合わさって「長崎芸能会」ができました
いまの丸山を歩く
長崎市が紹介している、いまも残る場所です。
- 思案橋:花街へ「行こか戻ろか」と男たちが思案したことから付いた名前といわれます。いまは長崎いちばんの飲み屋街の名前で、戦前までは川に橋がかかっていました
- 思切橋と見返り柳:思い切って渡ったのが思切橋、帰り道に未練で振り返らせたのが見返り柳。カステラの老舗・福砂屋本店の小路のわきに、橋の欄干と柳が残っています
- 史跡料亭 花月:丸山の妓楼「引田屋」の離れの茶屋だった建物で、長崎県指定の史跡の料亭です
- 長崎検番:築100年以上。かつて外国人専用の遊廓だった「松月楼」の建物で、いまは芸子衆がけいこをする場所です
- 梅園身代り天満宮:元禄13年(1700年)創建の丸山町の氏神さま。昭和40年ごろまで、丸山の芸者衆も多くお参りしたそうです
- 丸山オランダ坂:28段の石段。「オランダ行き」の遊女が、表門を通らずにこの石段を下り、小舟で出島に向かったことから名付けられた、という説が残っています

長崎の丸山は、1642年に市中の遊女屋を集めてできた花街です。ほかの花街とちがい、遊女が出島や唐人屋敷への出入りを許されていたのが特徴でした。
まとめ
- 始まりは、博多の商人が開いた今博多町の遊女屋。1606〜1607年から集められて「寄合町」に
- 1642年、丸山町と寄合町がL字型に合わさった「長崎丸山」が完成。広さは約1万坪、元禄期の遊女は1500人
- 吉原・島原・新町と並ぶ花街。遊女が出島や唐人屋敷へ行けたのが、ほかとのちがい
- 1781年ごろに旅芸子が来て、のちにじげ芸子が活躍。明治以降は芸子衆の花街文化に
- 思案橋・見返り柳・史跡料亭 花月・長崎検番などが、いまも残る
参考文献
- 長崎市. ナガジン! 発見!長崎の歩き方「中島川・寺町・丸山エリアができるまで」(コラム第3回). https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/column/201701/index.html (閲覧日:2026年10月22日)
- 長崎市. ナガジン! シャッターチャンス@長崎 第18回「丸山界隈」. https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/shutter/151210/index.html (閲覧日:2026年10月22日)
- 長崎市. ナガジン! 特集「ながさき花街丸山伝」(2010年9月、1ページ目). https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken1009/index.html (閲覧日:2026年10月22日)
- 長崎市. ナガジン! 特集「ながさき花街丸山伝」(2010年9月、2ページ目). https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken1009/index1.html (閲覧日:2026年10月22日)
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