大人の教養An Evening of Culture

第三幕Act III — The Pleasure Quarters

名古屋・中村遊廓の歴史1923年、大須の「旭廓」が田園地帯へ移ってできた「日本最後の大規模遊廓」。一辺300mの正方形、四隅の斜めの道、防火のコンクリート壁。いまも町の形が残る「大門」

No.1482026年10月22日

名古屋の中村遊廓は、大須観音の裏にあった「旭廓」が、大正12年(1923年)3月末に愛知郡中村へ移ってできました。名古屋駅の西およそ2kmの田園地帯に、一辺約300mの正方形の敷地を造成し、四隅には廓の中心へ向かう斜めの道、街区のあいだには防火のコンクリート壁を設けた計画的な町でした。全盛期の昭和12年(1937年)には娼家138軒、娼妓約2,000人。昭和31年(1956年)の売春防止法の制定をうけて灯が消えました。日本建築学会の論文と、名古屋市中村区の紹介をもとにまとめました。

目次
  1. 名古屋の遊廓の前史
  2. 1923年、田園地帯への移転
  3. 計画的につくられた「正方形の町」
  4. 防火の壁と堀
  5. 全盛期と、戦争
  6. 売春防止法と、その後
  7. いまの「大門」
  8. デートで話すなら
  9. まとめ

プレ男名古屋駅の西に「大門」って地名があるけど、あれって何の門?

メル美大正時代にできた遊廓の名残なんだって。道の形もそのまま残ってるらしいよ。

こんにちは、Dr. Taro です。 「色街の歴史」、今回は名古屋の中村遊廓です。日本建築学会の論文、近藤正一・早瀬幸彦・麓和善・若山滋「中村遊廓における建築計画の類型」(日本建築学会計画系論文集、1996年)と、名古屋市中村区の「中村区の名所・魅力を再発見」をもとにまとめました。

※この記事は歴史の紹介です。

名古屋の遊廓の前史

論文によると、名古屋の遊廓には次のような歴史がありました。

1923年、田園地帯への移転

プレ男移転には、地元から「町を活気づけたい」っていう要望もあったんだ。

計画的につくられた「正方形の町」

論文は、中村遊廓を、大正から昭和初期の近代的な都市計画の考え方を反映した町として分析しています。

名古屋市中村区の紹介も、大門は「元々田畑だった場所に、大正時代、中村遊郭建設時に計画的につくられたまち」で、南北に3本、東西に5本の通りがあり、四隅の道を斜めにすることで、まわりから遊郭の中が見えないようにしていたと説明しています。

防火の壁と堀

メル美大火の教訓で、コンクリートの壁と堀…。町ぜんたいで火事に備えてたんだね。

全盛期と、戦争

売春防止法と、その後

中村遊廓は大正12年(1923年)、大須の旭廓が田園地帯へ移ってできた町です。一辺約300mの正方形で、四隅に斜めの道を通し、まわりから中が見えないようにしていました。その道と町の形は、いまの大門に残っています。

いまの「大門」

デートで話すなら

大阪の大正の遊廓は飛田新地の歴史、江戸の遊廓は吉原の歴史、江戸時代の宿場の女性たちは宿場の飯盛女で紹介しています。

まとめ


参考文献

  1. 近藤正一, 早瀬幸彦, 麓和善, 若山滋. 中村遊廓における建築計画の類型. 日本建築学会計画系論文集. 1996;61(488):203-210. doi:10.3130/aija.61.203_3. https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/61/488/61_KJ00004221793/_article/-char/ja (閲覧日:2026年10月22日)
  2. 名古屋市中村区役所. 中村区の名所・魅力を再発見(Vol.5 大門). https://www.city.nagoya.jp/nakamura/miryoku/1033310.html (閲覧日:2026年10月22日)

この記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別の診断・治療に代わるものではありません。 気になる症状や不安がある場合は、医療機関にご相談ください。