
プレ男名古屋駅の西に「大門」って地名があるけど、あれって何の門?

メル美大正時代にできた遊廓の名残なんだって。道の形もそのまま残ってるらしいよ。
こんにちは、Dr. Taro です。 「色街の歴史」、今回は名古屋の中村遊廓です。日本建築学会の論文、近藤正一・早瀬幸彦・麓和善・若山滋「中村遊廓における建築計画の類型」(日本建築学会計画系論文集、1996年)と、名古屋市中村区の「中村区の名所・魅力を再発見」をもとにまとめました。
※この記事は歴史の紹介です。
名古屋の遊廓の前史
論文によると、名古屋の遊廓には次のような歴史がありました。
- 慶長15年(1610年)、名古屋城の築城のときに徳川家康が「飛田屋町廓」を設けた
- 享保16〜17年(1731〜1732年)、七代藩主・徳川宗春が「西小路遊廓」「富士見原遊廓」「葛町遊廓」の3つを設けた
- しかし、いずれも数年で廃止されました
- 安政年間(1854〜1859年)、宿屋の主人の願い出により、大須観音の墓地の北側が「北野新地」とされ、近くの宿屋が営業を始めたのが、のちの中村遊廓の起源です
- 明治9年(1876年)、拡張のために大須観音の堂裏へ移り、「旭廓(あさひくるわ)」と名前を変えました
1923年、田園地帯への移転
- 論文によると、大正12年(1923年)3月末日、旭廓は風紀上の問題から、愛知郡中村へ移り、「中村遊廓」となりました
- この移転には、中村地区の側からの地域振興の要望もあり、愛知県と名古屋市の指導のもとで行われたとされています
- 大正末ごろの地図によると、中村で開業したのは150軒、そのうち大須から移ってきたのは88軒でした
- 論文は、中村遊廓を「日本最後の大規模遊廓」と位置づけています

プレ男移転には、地元から「町を活気づけたい」っていう要望もあったんだ。
計画的につくられた「正方形の町」
論文は、中村遊廓を、大正から昭和初期の近代的な都市計画の考え方を反映した町として分析しています。
- 名古屋駅の西およそ2kmの田園地帯に、一辺約300mの正方形の敷地を埋め立て・造成してつくられました
- 大通りは、南北の「大門通り」と東西の「大門町筋」。それぞれ、市電の駅からの動線と、名古屋駅からの動線を意識しています
- 基本は、島原や吉原と同じ「三筋構造」。そのうえで外周を建物で囲み、四隅には廓の中心へ向かう斜めの道を通しています。論文は、これによってすべての道を廓の外につなげながら、外の世界とはっきり分けていると説明しています
- 一部の大店をのぞき、1区画は間口約14m・奥行き約29mにそろえられていました
- 交差点には角切りがあり、送迎の自動車の通行を意識したものと考えられています
名古屋市中村区の紹介も、大門は「元々田畑だった場所に、大正時代、中村遊郭建設時に計画的につくられたまち」で、南北に3本、東西に5本の通りがあり、四隅の道を斜めにすることで、まわりから遊郭の中が見えないようにしていたと説明しています。
防火の壁と堀
- 旭廓の時代には、明治36年(1903年)と大正2年(1913年)に大火がありました
- その反省から、中村遊廓では、各街区を厚さ220〜250mmのコンクリート壁で南北に二分し、外周には幅約2mの堀を設けました。論文は、堀は遊廓の独立性を強調するとともに、防火の意味ももっていたと考えています

メル美大火の教訓で、コンクリートの壁と堀…。町ぜんたいで火事に備えてたんだね。
全盛期と、戦争
- 開業当初は、主に総2階・入母屋造りの建物が並んでいましたが、昭和初期にカフェやダンスが流行すると、内部や正面を洋風に改装する妓楼が現れました
- 論文によると、全盛期は昭和12年(1937年)で、娼家138軒、娼妓約2,000人を数えました
- 昭和18年(1943年)10月、戦時体制に入ると、多くの妓楼は企業の寄宿舎に使われ、19軒・娼妓220人に縮小されました
売春防止法と、その後
- 戦後は80軒以上が営業を再開しました
- 論文によると、昭和31年(1956年)5月24日に売春防止法が制定されると、昭和32年4月の施行を待たずに、中村遊廓の灯は消えました(赤線の歴史)
- 論文が書かれた1996年の時点で、主な建物は、スイミングプール、料亭、旅館などに変わり、廓の事務所があった場所は大手スーパーになっていました
- 論文は、こうした建物の多くが文化財として保存されることもなく、記録されないまま取り壊されていると書いています。調査した3棟の妓楼のうち、保存されたのは1棟の一部だけでした

中村遊廓は大正12年(1923年)、大須の旭廓が田園地帯へ移ってできた町です。一辺約300mの正方形で、四隅に斜めの道を通し、まわりから中が見えないようにしていました。その道と町の形は、いまの大門に残っています。
いまの「大門」
- 名古屋市中村区は、大門について、大正から昭和初期にかけて一大歓楽街として栄えたこと、当時つくられた道や町の形は現在も残っていることを紹介しています
- いっぽうで、歴史的な建築物は年々取り壊され、姿を変えつつあるとも書いています
デートで話すなら
- 「大門の四隅の斜めの道は、外から中が見えないようにするためだった」は、地図を見ながら話せる歴史です
- 「大正の遊廓なのに、自動車の送迎を考えて角切りがあった」も、近代の町づくりの話として面白いポイントです
大阪の大正の遊廓は飛田新地の歴史、江戸の遊廓は吉原の歴史、江戸時代の宿場の女性たちは宿場の飯盛女で紹介しています。
まとめ
- 中村遊廓は、大須観音の裏の「旭廓」が、大正12年(1923年)3月末に愛知郡中村へ移ってできた
- 一辺約300mの正方形。四隅の斜めの道で、外から中が見えないようにした
- 大火の反省から、コンクリートの防火壁と堀を設けた
- 全盛期の1937年には娼家138軒・娼妓約2,000人。1956年の売春防止法の制定をうけて灯が消えた
- いまの「大門」に、当時の道と町の形が残っている
参考文献
- 近藤正一, 早瀬幸彦, 麓和善, 若山滋. 中村遊廓における建築計画の類型. 日本建築学会計画系論文集. 1996;61(488):203-210. doi:10.3130/aija.61.203_3. https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/61/488/61_KJ00004221793/_article/-char/ja (閲覧日:2026年10月22日)
- 名古屋市中村区役所. 中村区の名所・魅力を再発見(Vol.5 大門). https://www.city.nagoya.jp/nakamura/miryoku/1033310.html (閲覧日:2026年10月22日)
この記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別の診断・治療に代わるものではありません。 気になる症状や不安がある場合は、医療機関にご相談ください。