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メル美戊辰戦争で銃を持って戦った女の人が、そのあと牧師さんと結婚したんだって。

プレ男え、すごい組み合わせ!どんな夫婦だったんだろう。
こんにちは、Dr. Taro です。 「大人の教養」の男女の実話、今回は同志社英学校(いまの同志社大学)を開いた新島襄と、妻の新島八重です。国立国会図書館の電子展示「本の万華鏡」、京都市産業観光局が発行した冊子『八重とハンサム京都』、同志社大学の公式サイトに掲載された山下智子氏(新島学園短期大学)の寄稿「八重と会津」をもとにまとめました。
会津で銃をとった八重
京都市の冊子の年譜によると、八重の前半生はこうでした。
- 1845年(弘化2年)、会津藩の砲術師範の家に生まれる
- 1865年(慶応元年)、川崎尚之助と結婚(のちの会津戦争のさなかに離縁)
- 1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いのあと、兄の覚馬は捕らわれ、弟の三郎は戦死。8月、八重は戦死した三郎の着物を着て、スペンサー銃をもち、鶴ヶ城の籠城戦で戦う。9月、父・権八が戦死し、会津藩は降伏
- 1871年(明治4年)、京都府の顧問格になっていた兄・覚馬をたよって、母たちと京都へ
同志社大学の公式サイトに掲載された寄稿でも、八重は会津では、断髪・男装で籠城し、銃を持って勇ましく戦った女性として長く親しまれてきたと紹介されています。
アメリカ帰りの新島襄
- 新島襄は、元治元年(1864年)にアメリカへ密航し、理学や神学を学びました。国立国会図書館の解説によると、慶応2年(1866年)に洗礼を受けたクリスチャンです
- 帰国後の明治8年(1875年)11月29日、京都御所の東の借家に「同志社英学校」の表札を掲げました(京都市の冊子)
- 京都市の冊子によると、「同志社」という名前は、八重の兄・覚馬がつけたものです
1875年に婚約、1876年に結婚
- 京都市の冊子の年譜では、1875年(明治8年)に八重は襄と知りあって婚約し、1876年(明治9年)に、八重30歳、襄32歳で結婚式を挙げています
- 国立国会図書館の電子展示「ふりかえるブライダル」は、明治6年(1873年)にキリスト教禁止の高札が撤廃され、布教が黙認されるようになったころに、キリスト教式で結婚式を挙げる人たちが見られるようになったと書いています。その一組として紹介されているのが、新島襄と山本八重です
- 八重は、結婚式の前日に洗礼を受けていました

プレ男明治のはじめに、もうキリスト教式の結婚式をした夫婦がいたんだね。
「生き方がハンサム」
- 京都市の冊子は、襄がアメリカの友人に送った手紙の一文として、「彼女は見た目は決して美しくありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。」を紹介しています
- 冊子では、八重の生涯を「幕末のジャンヌダルク」「近代のハンサムウーマン」「日本のナイチンゲール」の3つの時期に分けています
- 結婚の翌年の1877年(明治10年)、八重は同志社分校女紅場(のちの同志社女学校)で礼法などの教員になりました
2人で訪ねた会津、1882年の旅
山下智子氏の寄稿によると、
- 1882年の夏、八重と襄は夫婦そろって会津若松を訪れました。襄にとっては初めての会津でした
- 会津で襄は、官軍に攻められた城のまわりを歩き、生き残った人たちから当時の話を聞いて、会津の人々の勇気に大いに感服したと書き残しています(『新島襄全集』4巻)
- 寄稿は、八重は襄にとって最高の案内役だったとし、この旅をきっかけに、襄は会津を拠点にした東北の伝道に情熱をもつようになったと書いています
- 1886年5月、襄はもう一度会津若松を訪れ、会津で最初の信徒となる14人に洗礼を授けました
「武士の心ばかりにては足らず」
- 1885年、病気の療養のためアメリカに渡っていた襄は、八重にこんな手紙を書いています
- 「何卒、武士の心ばかりにては足らす、真の信者の心を以て主と共に日々御歩み被下度奉希候」(『新島襄全集』3巻)
- 寄稿は、結婚して9年たっても、襄から見れば八重にはまだ「武士の心」が大きく感じられることがあったのだろう、と書いています。戊辰戦争で戦った八重にとって、「敵」をゆるすことは簡単ではなかったのです

メル美籠城戦を戦った人に「武士の心だけでは足りない」って、夫だから言えた言葉かもね。
最晩年の握手
- 寄稿によると、襄は最晩年のある日、八重の手を固く握って、こう語りました
- 「夫婦相愛の間柄とても永き月日の間には時に意見の相違は免れがたきものなれば今さらの事ではないが、お互いに心棒して忍耐の徳を養いたいものだ。其約束の固めとしてここに握手を求めたのだ」(『追悼集』6巻)
- そのころの襄は、体をいたわって長生きするより、無理をしてでも教育と伝道に進む覚悟でした。いっぽう八重は、襄が無理をしないよう健康管理に努めたといいます
- 襄は、1890年1月23日に亡くなりました。京都市の冊子では、享年46歳です。寄稿によると、その6日前、1月17日に書いた手紙が、襄が自分の手で書いた最後の手紙でした

新島襄は最晩年、八重の手を固く握って「お互いに心棒して忍耐の徳を養いたいものだ」と語ったと伝えられています。夫婦として歩んだのは、1876年の結婚から14年間でした。
夫を亡くしたあとの八重
京都市の冊子の年譜によると、
- 1890年、日本赤十字社の正社員になる
- 1894年、日清戦争で、4か月間、広島で篤志看護婦として従軍
- 1905年、日露戦争で、2か月間、大阪で篤志看護婦として従軍
- 茶道の教室も開き、茶名「新島宗竹」を授かっている
- 1932年(昭和7年)6月14日、自宅で亡くなる。86歳
山下智子氏の寄稿によると、八重は1921年、75歳で会津や安中(襄の父祖の地)を再び訪れ、「心和得天真」という書を残しました。李白の詩の一節で、寄稿はクリスチャンとしては「心を和やかにすれば神様の御心を知ることができる」と理解すべきだろうと書いています。生前の襄も、同じ言葉を書に残しています。
デートで話すなら
- 「籠城戦を戦った女性が、明治のはじめにキリスト教式で結婚した」は、意外性のある話です
- 「夫婦でも意見がちがうのは当たり前。だから忍耐の約束の握手を」という襄の言葉は、いまの夫婦にもそのまま通じそうです
日本の夫婦の実話は、坂本龍馬とお龍の新婚旅行もどうぞ。
まとめ
- 八重は会津の砲術師範の家に生まれ、1868年の籠城戦で銃をとって戦った
- 京都で1875年に新島襄と婚約し、1876年に結婚。明治のはじめのキリスト教式の結婚式で、八重は前日に洗礼を受けた
- 1882年、夫婦で会津を訪ね、襄は東北伝道の情熱をもった
- 襄は最晩年、八重の手を握り「お互いに忍耐の徳を養いたい」と語った。1890年に死去
- 八重は篤志看護婦・茶道の師範として生き、1932年に86歳で亡くなった
参考文献
- 国立国会図書館. 本の万華鏡 第38回 ふりかえるブライダル
結婚式の歴史と文化第二章 さまざまな挙式スタイル(明治~昭和). https://www.ndl.go.jp/kaleido/38/2 (閲覧日:2026年10月22日) - 京都市産業観光局観光MICE推進室. 八重とハンサム京都(冊子・PDF). https://ja.kyoto.travel/yae/Handsome_Kyoto.pdf (閲覧日:2026年10月22日)
- 京都市産業観光局観光MICE推進室. 八重とハンサム京都 相関図と年譜. https://ja.kyoto.travel/yae/yae_nenpu.html (閲覧日:2026年10月22日)
- 山下智子. 寄稿 八重と会津(同志社大学 公式サイト掲載の広報誌特集記事・PDF). https://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-1841/34085/file/135_024.pdf (閲覧日:2026年10月22日)
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