
メル美日本で最初の「世界の記憶」って、国宝の古文書じゃなくて、炭坑で働いていた人の絵なんだって。

プレ男え、プロの画家じゃないの?どんな絵なんだろう。
今回は「山本作兵衛コレクション」です。所有する福岡県田川市(田川市石炭・歴史博物館)の公式サイト、ユネスコ「世界の記憶」の登録ページ、文部科学省の「世界の記憶」のページで確かめました。
記録画の著作権は今も守られているので、この記事では絵そのものは載せていません(田川市の公式サイトには、記録画の一覧と、著作権の利用申請の案内があります)。
プロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 描いた人 | 山本作兵衛(1892〜1984年)。筑豊の炭坑で58年はたらいた |
| 描かれた時代 | 明治の終わりから戦後までの、筑豊炭田の炭坑 |
| 画材 | 墨と水彩。絵の余白に解説文 |
| 登録されたもの | 記録画589点と、日記・雑記帳・原稿など108点、合わせて697点 |
| 世界の記憶 | 2011年5月25日に登録。日本で初めて |
| 推薦 | 田川市と福岡県立大学 |
| 所有 | 田川市(田川市石炭・歴史博物館)と山本家(福岡県立大学が保管) |
7歳から炭坑へ
田川市の「作兵衛翁が描いた世界」(広報たがわ 2011年9月1日号をもとにしたページ)によると:
- 作兵衛は1892年(明治25年)、嘉麻郡笠松村鶴三緒(いまの飯塚市)で、遠賀川の川舟の船頭だった父の次男として生まれました
- 1899年(明治32年)、石炭を鉄道で運ぶようになって船頭の仕事が減り、父は船頭をやめて、一家で上三緒炭坑に移りました。作兵衛は7歳から兄といっしょに炭坑に入り、父の仕事を手伝いました
- 学校に通えない日が続きましたが、絵が大好きで、12歳ごろには源平合戦などの絵本を作って近所の子どもに売り、画材や食べ物を買っていたといいます
- 1904年(明治37年)、13歳で山内炭坑の「ツルバシ鍛冶」に弟子入り。1906年に山内炭坑の炭坑員になり、それから採炭員や鍛冶工員として、58年にわたって筑豊のあちこちの炭坑ではたらきながら、日記や手帳に炭坑の記録を残しました

プレ男7歳から炭坑で、58年…。ずっと現場にいた人なんだ。
60代から、ふたたび絵筆を
- 1957年(昭和32年)、作兵衛は事務所の宿直の警備員としてはたらきはじめました
- 夜警をしていると、戦死した長男のことばかり思われるので、気をまぎらわせるために、ふたたび絵筆をとりました
- そして「子や孫に炭坑の生活や人情を残したい」と、自分の経験や聞いた話をもとに、明治の終わりから戦後までの炭坑の様子を、墨や水彩で描くようになりました
- 絵はだれにも習っていない、まったくの独学でした。それでも、炭坑の様子や細かな作業、仲間の暮らしぶりを、いきいきと描いています
- 1984年(昭和59年)、92歳で亡くなる直前まで描き続け、作品は約2000点にもなりました
何が描かれている?
- 田川市によると、コレクションは、解説文が書きこまれた炭坑記録画や日記などからなり、日本の炭坑業の急速な発展を記した記録です
- 当時は、夫婦がいっしょに、主に人の力で石炭を掘り、運んでいたやり方から、機械化された近代的な炭坑へと変わっていく時代でした
- 当時の筑豊の様子を知ることは、日本だけでなく、産業革命が世界に広がっていく歴史を知る大事な手がかりになる、と田川市は推薦書から紹介しています
- 炭坑の暮らしは、生活の苦しさに加えて、死の恐怖と隣り合わせでした。坑内に下りると、いつ落盤するか、ガス爆発するか、水が出るかわかりません。そのなかで人々は、信仰や迷信にすがったり、縁起をかついだりしていました
- 田川市の公式サイトでは、記録画が墨画(図録番号1〜306)と水彩画(図録番号307〜585)に分けて紹介されています

メル美いつ事故が起きるかわからない場所で、毎日はたらいていたんだね。
ユネスコは何を評価した?
ユネスコの登録ページは、次のように書いています。
- このコレクションは、明治の終わりから20世紀の後半まで、筑豊の炭鉱業で産業革命がまだ進んでいた時代の、個人の証言である
- 素朴な絵(ナイーブ・アート)と文章を組み合わせ、描かれた出来事のさなかに書かれた日記にもとづいている。描いたのは、その時代を生き、文字どおり石炭の切羽ではたらいた人だった
- その時代の記録の中心は政府や会社の公式の書類なので、はたらく人自身がつくった私的な記録は、日本ではきわめてめずらしい
- 作兵衛の絵には、公式の記録にはまったくない生々しさと臨場感がある

ユネスコは、山本作兵衛の記録画を、政府や会社の公式の書類が中心だった時代に、炭坑ではたらく人自身が残した、日本ではきわめてめずらしい私的な記録として評価しています。
日本で初めての「世界の記憶」になるまで
- 「世界の記憶」は、ユネスコが1992年(平成4年)に始めた事業で、手書きの文書、書籍、絵巻物、写真などの、歴史的に大切な記録を守り、活用することが目的です(田川市)
- きっかけは、2009年10月22日の「九州・山口の近代化産業遺産群 世界遺産シンポジウム」でした。田川市の二本煙突と竪坑櫓は、世界遺産をめざす構成資産からはずれましたが、作兵衛の記録画と記録文書は、その補足資料として出されていました
- 会場では、イングリッシュ・ヘリテッジ元総裁のニール・コソン卿をはじめ、海外の専門家が、作兵衛のコレクションを「世界の記憶」に登録できる可能性を示しました
- 「世界の記憶」は、国だけでなく、個人やNGO、地方自治体でも推薦できました。田川市と福岡県立大学は、オーストラリアの専門家マイケル・ピアソン博士を招いて調査し、2010年(平成22年)3月に推薦書を出しました
- そして2011年(平成23年)5月25日、日本で初めて「世界の記憶」に登録されました
- その後、2013年6月に国宝の御堂関白記と「慶長遣欧使節関係資料」も登録されています
697点の内訳
田川市の「山本作兵衛コレクションの概要」による内訳です。
| 所有 | 絵画 | 日記 | 雑記帳・原稿など |
|---|---|---|---|
| 田川市 | 585点 | 6点 | 36点 |
| 山本家(福岡県立大学が保管) | 4点 | 59点 | 7点 |
| 合計 | 589点 | 65点 | 43点 |
- 合わせて697点です
- 田川市石炭・歴史博物館では、春や秋に原画の企画展を開いています(2026年度の春は「ヤマの暮らし」)
まとめ
- 山本作兵衛(1892〜1984年)は、7歳から炭坑に入り、筑豊の炭坑で58年はたらいた人
- 60代で夜警をしながら、「子や孫に炭坑の生活や人情を残したい」と、独学で墨と水彩の記録画を描いた。作品は約2000点
- 絵の余白に解説文。人の力の採炭から機械化へと変わる炭坑と、落盤・ガス爆発・出水と隣り合わせの暮らし
- ユネスコは、はたらく人自身の私的な記録として、日本ではきわめてめずらしいと評価
- 記録画と日記など697点が、2011年5月25日、日本で初めてユネスコ「世界の記憶」に
- 同じ「世界の記憶」の日本の記録は御堂関白記もどうぞ
参考文献
- UNESCO Memory of the World. Sakubei Yamamoto Collection. https://www.unesco.org/en/memory-world/sakubei-yamamoto-collection (閲覧日:2026年10月22日)
- 田川市. 山本作兵衛コレクション(田川市石炭・歴史博物館). https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/y_sakubei/default.html (閲覧日:2026年10月22日)
- 田川市. 世界記憶遺産とは. https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji003812/index.html (閲覧日:2026年10月22日)
- 田川市. 世界記憶遺産「山本作兵衛コレクション」(山本作兵衛コレクションの概要). https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji003843/index.html (閲覧日:2026年10月22日)
- 田川市. 作兵衛翁が描いた世界(広報たがわ 平成23年9月1日号より). https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji003823/index.html (閲覧日:2026年10月22日)
- 田川市. 世界記憶遺産登録推薦へ(登録までの経緯). https://www.joho.tagawa.fukuoka.jp/kiji003813/index.html (閲覧日:2026年10月22日)
- 文部科学省. ユネスコ「世界の記憶」. https://www.mext.go.jp/unesco/006/1354664.htm (閲覧日:2026年10月22日)
この記事は一般的な情報提供を目的としたもので、個別の診断・治療に代わるものではありません。 気になる症状や不安がある場合は、医療機関にご相談ください。