榮太樓總本鋪:1818年(文政元年)、飯能の菓子商・細田徳兵衛が江戸の九段坂に「井筒屋」。日本橋の屋台の金鍔が評判になり、1857年(安政4年)に「榮太樓」を名のる。梅ぼ志飴や甘名納糖を生む
榮太樓總本鋪の公式サイト「榮太樓の200年史」によると、文政元年(1818年)、埼玉県飯能で菓子商をしていた細田徳兵衛が孫を連れて江戸に出て、九段坂に「井筒屋」を構えました。徳兵衛の曾孫にあたる3代目の細田安兵衛(幼名・栄太郎)が日本橋のたもとに屋台を開き、焼いた金鍔が魚河岸の商人たちの評判になりました。安政4年(1857年)に日本橋西河岸町に独立した店を構え、幼名にちなんで屋号を「榮太樓」と改めました。安政年間に「梅ぼ志飴」、文久年間に「甘名納糖」、明治に「玉だれ」「黒飴」を作っています。東京大空襲で日本橋の店舗・工場が焼けましたが戦後すぐに再建し、1951年には東急東横のれん街の設立に力を尽くし、1962年に創業の地・日本橋に栄太楼ビルを建てました。

プレ男「榮太樓飴」の缶、おばあちゃんちにあったなあ。

メル美始まりは日本橋の屋台の金鍔なんだって。
今回は、日本橋の和菓子店「榮太樓總本鋪」です。公式サイトの「榮太樓の200年史」(2026年10月10日閲覧)で確認した内容をまとめました。
1818年、九段坂の「井筒屋」
- 文政元年(1818年)、埼玉県飯能で菓子商をしていた細田徳兵衛が、2人の孫を連れて江戸に出て、九段坂に「井筒屋」を構えました
- これが、いまに続く和菓子業のはじまりだと会社は説明しています
日本橋の屋台の金鍔
- 徳兵衛の曾孫にあたる3代目の細田安兵衛(幼名・栄太郎)が、日本橋のたもとに屋台を開きました
- 栄太郎が焼く金鍔は、「大きくて甘くておいしい」と魚河岸の商人たちの評判になったといいます
- 安政4年(1857年)、日本橋西河岸町(いまの栄太楼ビルの場所)に独立した店を構え、幼名の栄太郎にちなんで屋号を「榮太樓」と改めました

プレ男お店の名前は、子どものころの名前からとったんだ。
梅ぼ志飴と甘名納糖
| 時期 | 生まれたお菓子 |
|---|---|
| 安政年間 | 梅ぼ志飴 |
| 文久年間 | 甘名納糖(会社は甘納豆の元祖と説明) |
| 明治 | 玉だれ、黒飴 |
- 「梅ぼ志飴」の名前は、はさみで切った紅色の飴を指でつまんで三角形にした形が梅干しに似ていることから、江戸っ子が名づけたと説明しています
- 第一回内国勧業博覧会で、甘名納糖が優等賞を受けたとしています

メル美梅干しの形だから「梅ぼ志飴」なんだね。
空襲をこえて
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1945年 | 東京大空襲で日本橋の店舗・工場が焼失。戦後すぐに再建へ |
| 戦後 | 再建した日本橋本店に喫茶室 |
| 1951年 | 「東急東横のれん街」の設立に力を尽くし、百貨店に初出店 |
| 1956年 | 調布工場が完成 |
| 1962年 | 創業の地・日本橋に栄太楼ビルが完成 |
- 会社は、東横のれん街を「日本初の食品名店街で、いまのデパ地下のルーツ」と説明しています

榮太樓總本鋪の200年史によると、1818年に九段坂で「井筒屋」を構え、日本橋の屋台の金鍔が評判になって、1857年に「榮太樓」を名のりました。
まとめ
- 1818年、細田徳兵衛が九段坂に「井筒屋」
- 日本橋の屋台の金鍔が評判に
- 1857年、幼名の栄太郎にちなんで「榮太樓」
- 梅ぼ志飴、甘名納糖、玉だれ、黒飴
参考文献
- 榮太樓總本鋪. 榮太樓の200年史. https://www.eitaro.com/200th/history/ (閲覧日:2026年10月10日)
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